ウィリアム・マーシャル
ウィリアム・マーシャル(1146年頃~1219年)はイングランドの騎士でペンブルック伯、ヘンリー2世、若ヘンリー王、リチャード1世、ジョン、ヘンリー3世の五人の王に仕えました。馬上槍試合の王者として名を上げたのち相続人イサベル・ド・クレアと結婚して大領主となり、1216年にジョン王が死ぬと9歳のヘンリー3世の摂政となり、翌年リンカーンの戦いに勝ってマグナ・カルタを再発布しました。「史上最高の騎士」という異名で知られます。
| 生没 | 1146年頃 – 1219年 |
|---|---|
| 活動地域 | イングランド · ノルマンディー · ペンブルック · アイルランドのレンスター |
| 知られていること | 「最高の騎士」、ヘンリー3世の摂政、1217年リンカーンの戦い |
| ゲーム開始 | 1213年 · 67歳 · ペンブルック伯にしてレンスターの領主 — ラニーミードへの道 |
生涯の要約
- 1146年頃 王家の厩舎長ジョン・マーシャルの四男として生まれます。
- 1152年 ニューベリー包囲の際スティーヴン王の人質となり、父は降伏を拒みますが、王は幼い彼を殺しませんでした。
- 1170年 ヘンリー2世の長男・若ヘンリー王の武芸の師となり、彼とともに馬上槍試合を巡って名を馳せます。
- 1183年 若ヘンリー王が死ぬと、王が担うはずだった十字架を代わりに担って聖地へ旅立ち、二年あまり滞在します。
- 1189年 リチャード1世から、ペンブルックとレンスターの相続人イサベル・ド・クレアを妻に与えられます。
- 1199年 ジョン王の即位とともにペンブルック伯となります。
- 1215年 諸侯と対立したジョン王のそばに残ってラニーミードの交渉を助け、マグナ・カルタに王の助言者として名が記されます。
- 1216年 ジョンが死ぬと9歳のヘンリー3世の摂政となり、マグナ・カルタを改めて再発布します。
- 1217年 5月20日、70歳を過ぎた身でリンカーンの戦いでフランス王子ルイの軍を破り、9月のランベス条約でルイを帰国させます。
- 1219年 5月14日にキャヴァシャムで死ぬ前にテンプル騎士団に入り、ロンドンのテンプル教会に葬られます。
家族
ゲームでこの人物として始めたときに一緒に登場する家族です。年は歴史記録に従い、伝わっていないものは ? としました。
| 続柄 | 名前 | 生没年 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 父 | ジョン・マーシャル | 1105年頃 – 1165年 | 王家の厩舎長 |
| 妻 | イサベル・ド・クレア | 1172年 – 1220年 | 「ストロングボウ」リチャード・ド・クレアの娘、ペンブルックとレンスターの相続人 |
| 息子 | ウィリアム | 1190年 – 1231年 | 第2代ペンブルック伯 |
| 息子 | リチャード | 1191年 – 1234年 | 第3代伯。アイルランドのカラーで負傷して死去 |
| 娘 | モード | 1192年 – 1248年 | ノーフォーク伯ヒュー・ビゴッドと結婚 |
| 息子 | ギルバート | 1194年 – 1241年 | 第4代伯。馬上槍試合で死去 |
| 息子 | ウォルター | 1196年頃 – 1245年 | 第5代伯 |
| 娘 | イサベル | 1200年 – 1240年 | グロスター伯、ついでコーンウォール伯リチャードと結婚 |
| 娘 | シビル | 1201年頃 – 1245年 | ダービー伯ウィリアム・ド・フェラーズと結婚 |
| 娘 | イーヴァ | 1203年頃 – 1246年 | ウィリアム・ド・ブラオースと結婚 |
| 息子 | アンセル | 1208年頃 – 1245年 | 第6代伯。五人の息子が皆子を残さず死に男系が絶える |
| 娘 | ジョーン | 1210年頃 – 1234年 | ウォーリン・ド・マンチェンシーと結婚 |
ゲームでは
1213年の春、アイルランドのレンスターで67歳のペンブルック伯として始まります。最初から領主なので、国タブと外交をすぐに使えます。妻イサベルと五人の息子、五人の娘がいて、ジョン王は長男と次男を何年も人質に取っています。フランス王が海を渡ってくるという噂の中、あなたを信用していなかったジョン王があなたを呼び出します。
分岐点は「ブーヴィーヌ」です。1213年のポワトゥー行きの船と1214年のブーヴィーヌの日曜日が形勢を動かします。ジョンの同盟軍が敗れればラニーミードとルイの上陸、ニューアークの臨終、リンカーンの市場通りとサンドウィッチ沖、ランベスを経て1219年のテンプル教会までの史実が、同盟軍が勝てば憲章のない夏とノルマンディーの摂政へ続く別の筋が結末まで進みます。
実際に死んだ年である1219年の「キャヴァシャムの白い外套」が最後の危機です。乗り越えれば1220年、ストリギルの春という別の結末があります。
- シナリオ案内 ラニーミードへの道
- 時代案内 中世
- 関連する分岐点 もしもジョン王の同盟軍がブーヴィーヌで勝っていたら?
よくある質問
ウィリアム・マーシャルはなぜ「最高の騎士」と呼ばれるのですか?
若い頃ヨーロッパ各地の馬上槍試合で多くの騎士を捕らえて名を馳せ、五人の王に次々と仕えて忠誠を守ったことで有名だったからです。葬儀の際、カンタベリー大司教スティーヴン・ラングトンが彼を「これまで生きたうちで最も立派な騎士」と呼んだと伝えられます。
ウィリアム・マーシャルとマグナ・カルタはどんな関係ですか?
1215年に諸侯と対立したジョン王の側に残って交渉を助け、1216年に摂政となったのちは、教皇が無効とした憲章を改めて幼いヘンリー3世の名で再発布しました。1217年にも再び発布し、マグナ・カルタが一時の文書で終わらず生き残るうえで大きな役割を果たしました。
ウィリアム・マーシャルの物語はどのように伝わっていますか?
彼の死後1220年代に、息子ウィリアムの依頼で書かれた古フランス語の韻文伝記『ウィリアム・マーシャル伝』が残っています。1万9千行を超えるこの伝記は19世紀に再発見され、中世の騎士の暮らしを伝える貴重な記録となりました。
参考
『ウィリアム・マーシャル伝』(1220年代の韻文伝記)、ウェンドーヴァーのロジャーとマシュー・パリスの年代記、マグナ・カルタ(1215・1216・1217年版)。